組織アイデンティティ
大企業の不祥事が起きている。コーポレートガバナンスにはアカウンタビリティと経済性の両面がある。成長のためのコーポレイトガバナンスでありたいのであるが、アカウンタビリティに関する部分にも注目が集まっている。
経済活動と倫理
2010年11月1日、国際規格ISO26000(Guidance on social responsibility) が発行された。CSRという概念にはCorporateという言葉が含まれており企業に限定されるが、ISO26000はあらゆる組織に対してSR(Social Responsibility)を勧告として求めるものである。この中に社会的責任への動向と期待という項目があり、その中に次のような文言が記されている。
「社会的責任の根本原則は、法の支配の尊重及び法的拘束力をもつ義務の順守である。しかし、社会的責任は、法令順守を超えた行動及び法的拘束力のない他者に対する義務の認識も必要とする。これらの義務は、広く共有される倫理その他の価値観から発生する。」
何がポイントかと言えば、法的順守を超えた行動や価値観である。OECDのコーポレートガバナンス規則のように、株主の権利を最初に語っている内容よりは、より社会的そして人間的であるように思える。
私の稚拙な理解では、社会には「父性原理」と「母性原理」というものが存在する。父性原理とは「正義の徳」とも言われ、正義に反する行いをしたら罰せられるというものである。母性原理は「慈恵の徳」ともよばれ、ボランティアなど人のために進んで行うものである。極端な言い方になるが、慈恵の徳は行われなくても、正義の徳は行われなければならない。それはなぜか。良くない行いをする人がいて、それにより被害を受ける人がいるからである。それを防ぐたには行動を規制し脅威を与えなければならない。この目的を達成すべく政治や法律が徐々に強化・整備されていった。
しかし中世ヨーロッパにおいて、法律を多く施行しているパリの方が法律の少ないロンドンより犯罪が多いという矛盾に対し、経済的に豊かであることでその富が分配され、犯罪が少なくなるという考えが生まれる。努力した人が努力に応じて報われること。そして政治はできるだけ市場に介入しないことで自由に経済を行う。結果、人は自己の利益を追求しながら他者の利益も満たすことで国家を豊かにするという古典派経済学へ自然発展的に進んでいく。英国のアダム・スミス(1723年~1790年)に代表される、古典派経済学の登場である。
「経済学」という概念は当時は存在しておらず、アダム・スミスも父親と同様、神学者であった。彼は経済活動に対するパトス(同感)に言及している。Sympathyという単語をよく見るとパトスという言葉が隠れている。人の悲しみや苦しみがわかること。これを良心という。経済活動において自己の利益にのみを追究する行為にパトス、つまり良心はなく、それは人間の行動ではないと示唆している。自分の利益も追及すると同時に他者の利益も追及することが経済の本質ではないかと問うている。
「法に触れなければよい」という言い分を聞くことがある。人類は原始社会において、糧を得るために自然を畏怖し、神―すなわち目に見えないもの―を信じた。それが社会の規範であり社会の秩序であったのだ。後に農耕などにより余剰生産物が生まれると分業が可能となり、社会は進化する。法律が存在しない、あるいは未熟な社会においては倫理や慣習(社会を維持するための知恵)が社会の秩序であった。経済活動が進化するにつれ、政治が生まれ、法律が整備され、それが社会の秩序となり、さらに進化していく中でいよいよ「経済」というものが登場することになる。
忘れてはならないのは、法や政治、そして経済の前に倫理が秩序として存在していたということである。自然への畏敬、人としての倫理という基盤の上に、政治や法律や経済は存在する。法に触れなければやってもよい、グレーなら構わないという考え方は、人類の進化と逆行したものであると言えるかもしれない。
個人と組織のアイデンティティ
アイデンティティ理論は、アメリカの心理学者であるE.H. エリクソン(1902年~1994年)などによって構築された。彼は自己同一性(self-identity)について深く言及している。自分は何者であり、何をなすべきかという個人の心の中に保持される概念である。
アイデンティティは青年期の発達課題である。自分自身を形成していくのが青年期であり、「これこそが本当の自分だ」という実感を習得する時期である。アイデンティティが形成されないと、対人的失調(対人不安)、非行、アパシー(apathy:無気力及び感情鈍麻)など同一性拡散の危機をもたらすとエリクソンは指摘している。彼は、乳児期(0~1歳)から成熟期(65歳~)までのアイデンティティについて、導かれるもの、心理的課題、主な関係性などを述べている。例えば、幼児期には恥、罪悪感、積極性、自律性を両親や家族から学ぶ。児童期では、小学校やクラブ活動を通じて、有能感や劣等感を学び、自己実現や達成について学習する。青年期になると、イデオロギーや社会的関係の中から忠誠心や自分なりにこだわりたい価値観などを学ぶ。
このようなアイデンティティの概念を組織にあてはめた一人がリチャード・バレット(1945年~)である。
例えば、生存・安全という段階は「毎月の給与日が楽しみで仕方がない」という状態だ。それが良くないという訳ではなく、事実としてそういう状態であるということだ。この段階での人間関係におけるニーズは、例えば同僚や友情を得ることである。これに固執すると人間関係の恐怖心に支配され、「共依存」という状態になる。共依存とは、仲間として認めてもらうために、たとえそれが自分の考えや意思とは異なるものでも賛同してしまう言動のことである。この共依存が強いと、チームの一員という感覚を得るために何でも喜んで行うことがある。また、所属を優先するため、真実と創造性を犠牲にすることさえある。同僚などの集団(あるいは組織)に対する忠誠心が、組織(あるいは法律)に対する忠誠心に勝ってしまうのだ。
より上の段階である自負・自尊では、そのニーズは尊敬を得ることに変わる。すなわち、自分に関して良い感情を持ちたいのだ。例えば、昇給や昇進に気をかけるようになる。そしてそれが強いと野心的になっ
たり、競争的になったりする。上司に悪い報告をするくらいならむしろ嘘をつく、あるいは真実を半分だけ伝えるといった行動を取る場合もある。他者主導で、自分の価値は外部によって決定されると思い込み、良く見られるためにどうしたらよいかばかりを考える。最大の不安は「尊敬されない」「評価されない」といったことであり、賞賛を得るためなら家族、友人、同僚も犠牲にする。満足のためには最も高い給与をもらう必要があり、役員専用の椅子や個室に異常なまでの憧れを抱く。そして解雇や引退は破滅を意味する。変化を恐れるのは自分の地位に影響するからである。テストで高い点を取ることができるならカンニングも辞さない、というのも同様の考え方による。談合はある意味集団カンニングのようなものだ。
近年、社会的共創価値(CSV)、コーポレートガバナンス・コード、持続性社会などが声高に叫ばれているが、これはリチャード・バレットの図では公益に類するものである。個人のアイデンティティが未成熟であれば、組織のアイデンティティも未成熟でありうる。高い段階に向け成長していくステップが重要である。その成長ステップは、組織がゴーイング・コンサーン(継続企業)として何に挑戦していくかで高めていくことができる。挑戦なくして成長はないからだ。
コーポレートガバナンスと組織文化
前回、コーポレートガバナンスは文化であると述べたが、行動様式としての組織文化という視点からコーポレートガバナンスの在り方に触れてみたい。
例えば、粉飾などを行った組織が「タックスヘイブン(租税回避地)のメリットを享受しているグーグルやスターバックスよりはましなのではないか」などということを思っているかもしれない。しかし、税制について国際社会ルールが現状に追いついていないことは問題であり速やかにルールを設けるべきではあるが、リターンだけを気にする投資家として合理的でスマートな方に投資をしているだけであり、ルールを破ってはいない。そこに、良心としてのパトスはないのかもしれないが。
不祥事が起こると大概は外部から取締役を呼んで経営の刷新を図る。コーポレートガバナンスが取り沙汰される大きな契機となったエンロン事件の後、2002年に企業会計の不正に対処するためにSOX 法が制定されるが、その際にも経営者の倫理が問題として取り上げられた。エンロンには独立取締役も存在したが事件を防ぐことはできなかったのである。
組織文化とは、習慣によって形成された暗黙的仮定である。習慣であるため努力を必要とせず、自然に反応をする。「タックスヘイブンでの租税回避よりはましではないか」「後で挽回すればいいだろう」「談合した方が業界のため、ひいては社会のためだ」といった思考はそうした行動習慣から形成された思考習慣であり、それが価値観となって組織文化として定着する。結果、同じ類の行動を繰り返すことになるのだ。
行動習慣、思考習慣は日常の業務活動の中で形成・蓄積される。たとえ取締役を変えたとしても、この文化が変わらない限り何も変わらない。一時的に望ましくない行為を抑えることはできても、既存の文化が根幹に存在する限り異なる形で異なる不祥事が表出することになるのではないか。
組織文化というものは、新たな経験を通じて学習し形成されるものだ。できうるならばそれは本来、外圧によってではなく内省による内部からの変革によってもたらされるべきものである。
組織の進化は、個人のアイデンティティのそれと同様であるように思える。コーポレートガバナンス・コードや独立取締役が無駄であるということではない。ただ、組織改革に必要とされるべきは、組織のアイデンティティを問い、育むことではないだろうか。