日本企業の進出が中南米では最多のメキシコで、左派のオブラドール大統領率いる政権が人材派遣への思い切った規制を導入しようとしている。連邦労働法を改正し、グループ傘下に人材派遣会社を設立して、グループ内の企業に人材を派遣する通称「インソーシング」を原則禁止すると言うのだ。経済界からは不満の声が湧き上がっている。法案は成立するのか?成立したら企業はどんな影響を受けるのか?現地専門家らへの取材をもとに “人材派遣禁止法案” の現状と見通しを検証する。
メキシコで、オブラドール大統領率いる左派政権が私たちの感覚からすると「やりすぎ」の感も拭えない人材派遣への規制を導入しようとしている。人材派遣を原則禁止する連邦労働法改正法案を成立させようとしているのだ。民間企業・団体など経済界からは不満の声が上がっている。今、メキシコのメディア―新聞やテレビ、SNS では「法案は4 月中に成立する」「いや秋口になる」などと成立時期を予測する報道が交錯しているという。し
かし時期については不確かでも、「メディアも議会関係者も『法案が法制化しないという兆しは無い』という点では一貫している」と現地で法務・税務のコンサルティングを行う専門家は指摘する。「法案が法制化しないという兆しは無い」。ということは法案は成立するのだろうか?成立したら企業はどんな影響を受けるのか?
USMCA(アメリカ・メキシコ・カナダ協定:注)に加盟するメキシコは、我が国の自動車産業にとっては北米への輸出のための重要な加工拠点だ。日本の外務省によれば、メキシコにある日本企業の拠点は自動車関連を中心に約1300 カ所に達し、中南米ではブラジルの約650カ所を大きく上回り最多だという。
人材派遣禁止の影響はもちろんこれらの日本企業にも及ぶ。私たちにとっても決して他人事ではないのだ。現地の状況に詳しい専門家たちの分析に基づいた連邦労働法改正法案の内容と今後の見通しについてお伝えしたい。(注:USMCA は、NAFTA =北米自由貿易協定に代わる新たな貿易協定として2020年7月に発効した)
「460 万人の労働者の半分が職を失う」と経済界は批判
まずは法案の内容と経緯を見ていこう。2020年11月12日、オブラドール大統領は記者会見で、人材派遣を原則禁止する連邦労働法改正法案、及び所得税(ISR)法や社会保険法など複数の法律改正案を政府として議会に提出すると発表した。
メキシコでは、グループ傘下に人材派遣会社を設立して、グループ内の企業に人材を派遣する通称「インソーシング」がサービス業や製造業で広く活用されている。例えば観光業では、繁忙期に人材をグループ内のホテルに派遣し、閑散期に飲食店などに派遣する人材配置がよく行われている。需要の波に合わせて人員を調整し、かつ総人件費を押さえる仕組みだが、こうしたインソーシングも含めて「企業や個人による人材派遣サービスの利用を原則として禁止する」という。
一方で、清掃や警備、税務・会計など、派遣先企業の本業以外の専門業務を行う人材派遣については例外的にこれまで通り認めるが、人材派遣会社がこれらのサービスを手がけるためには労働社会保障省(STPS)の認可が必要になる。
オブラドール大統領は法案提出の理由について「人材派遣を悪用した違法行為を一掃するためだ」という。「政府は人材派遣会社に対して合計4709 回の査察を実施した。その結果、約1200 社で違法行為が見つかった。派遣スタッフを正社員として雇用していながら社会保険料を支払っていない企業や、冬のボーナスの支給直前に不当に解雇する企業が後を絶たず、90 万人近い労働者が悪影響を受けていたと分かった」とも説明した。
経済界には衝撃が走った。企業経営者らにしてみれば、人材派遣を悪用した違法行為の是正は望むところでも、人材派遣自体の禁止は企業経営への影響が大きすぎる。有力経済団体である企業家調整評議会(CCE)会長は「腐ったリンゴをもぎ取るかわりに、木を切り倒そうとしている」と不満を訴えた。メキシコ経営者連合会(COPARMEX)会長も「人材派遣で働く460 万人の労働者の半分が職を失うだろう」と指摘した。
メキシコの経済情勢についての調査・分析や日本企業への助言を行う邦銀(メガバンク)の担当者は「オブラドール大統領は主要経済団体トップへの事前の詳細な説明なしにいきなり法案を提出したのではないか。経済界には寝耳に水だったのではないか」と分析する。
2018 年12 月に就任したオブラドール大統領は、労働組合や左派の市民団体を支持基盤に持つ。その政治手法や言動については「独善的、大衆迎合的だ」と政敵から批判されることもある。2006年の大統領選挙で敗れた時には投開票に不正があったと主張し、全票の再集計を求める訴えを裁判所に起こす一方、デモ行進や集会、公共施設の占拠などの抗議活動を繰り広げた。昨年の米大統領選挙の結果を受け入れず、米議会占拠事件を招いてしまったあのトランプ氏さえほうふつとさせる。「経済界の代表の中には、今回の法案提出を独善的、大衆迎合的だと感じた人が少なくなかったはずだ」と邦銀の担当者は言う。
成立の可能性、その時期は?
2020年12月、法案を巡る動きは第二幕を迎える。同月9日の記者会見で、オブラドール大統領は「連邦労働法改正法案について経済界などと協議を行い、議会での審議開始を2021年2月まで待つことで合意した」と発表したのだ。経済界の不満に配慮したかのようにも見えるが、合意内容の中には「民間部門は(つまり企業側は)政府が提出した連邦労働法改正法案にのっとってただちに必要な準備を始める」という項目があり、基本的にはそれまでの姿勢を崩していないと見ていいだろう。連邦労働法改正法案は成立するのだろうか? その場合はいつごろになりそうなのか?現在―この原稿を執筆している2021年3月下旬時点ではまだ審議は始まっていない。
独立行政法人・日本貿易振興機構(ジェトロ)などへの取材では、メキシコ経営者連合会(COPARMEX)が政府との合意を拒否するなど、経済界での合意形成ができていないことが大きいようだ。また議会はこの1 カ月余り、オブラドール大統領が2月1日に提出したもう1つの重要法案、電力産業法改正法案の審議に集中していた。電力産業法改正法案は国営の電力公社(CFE)を優遇する内容で、民間の電力会社などからの反発にもかかわらず1カ月余りの短い審議で3月3日に成立した。
前出の現地で法務・税務のコンサルティングを行う専門家は状況をこう説明する。
「新聞やテレビ、SNS からは、法案の最終的な審議さらには成立についての異なる情報が報じられている。いくつかの新聞や議会関係者が『法案の成立は8月の次期議会に延期される可能性が高い』と言う一方で、別のメディアは『今議会で審議され、会期末の4月中に成立する』と従来の見方を維持している。しかし時期については不確かでも、メディアも議会関係者も『法案が法制化しないという兆しは無い』という点では一貫している」
メキシコ連邦議会は上下両院ともにオブラドール氏が率いる連立与党(国家再生運動=Morena、労働党=PT、社会結集党=PES)が議席の3分の2を占める。電力産業法改正法案と同じように連邦労働法改正法案も数の力で可決されると見られているのだ。
最悪の場合、悪影響は完成車メーカーにも及ぶ
では法案が施行されたら企業はどんな影響を受けるのだろうか?日本企業への影響について前出の邦銀の担当者はこう指摘する。「メキシコに進出した日系企業の中にも人材派遣を活用している企業はもちろんある。グループ内に第二現地法人として人材派遣会社を設立し、自動車部品の製造などを行う事業会社に人材を派遣する通称インソーシングを導入している企業もある。連邦労働法改正法案が成立したら、第二現地法人を解散せざるを得ず、数百人から数千人に上る派遣社員たちの意向を一人一人聞いて、望む人たちを直接雇用に切り替えていかなければならない。この間、生産には影響が出るだろう。場合によっては数週間から一カ月以上、生産ラインを止めなければならないかもしれない。そうなったら自動車の生産が滞り、悪影響は完成車メーカーにも及ぶ」「加えて日系企業の中には、ゼネラルモーターズやフォルクスワーゲンなど欧米の自動車メーカーの系列企業に納入している部品メーカーもある。欧米企業もインソーシングを活用しているので、法案成立に伴う混乱で欧米企業の生産が停滞すれば、日系企業への発注が止まってしまう事態も懸念される」影響はまだある。「メキシコの所得税法(ISR 法)では現在、企業はグループ内の人材派遣会社に支払う対価を経費として控除できる。しかし連邦労働法改正法案が成立した場合、それに伴って関連する所得税法も改正され、経費として控除できなくなる。これは企業にとって二重のコスト増に直結する」
どういうことか?メキシコには、企業は利益(課税所得)に一定の調整を加えた金額の10%を従業員に分配しなければならない「労働者利益分配金(PTU)」制度がある。
グループ内の人材派遣会社に支払う対価を経費として控除できなくなれば、その分、利益が増え、PTU が膨らむ。加えて人材派遣が原則禁止になれば、直接雇用を増やさざるを得ないので、増やした人数分、PTU が膨らむ。連邦労働法改正法案はこれまで派遣社員を活用してきた企業ほど負担が増してしまう内容だと言える。
前出の現地で法務・税務のコンサルティングを行う専門家は「法案が成立したらすぐに施行(発効)されると見られている」と指摘する。「法案成立から施行(発効)までの“移行期間” は無いかもしれないということだ。したがって企業は、今から成立までの期間を“移行期間” と考え、法案が提示する労働者や税への義務に準拠するよう準備すべきだ」。
4月末までに成立するにせよ、秋口になるにせよ、法律施行へのカウントダウンはすでに始まっていると見ていいだろう。
著者 渋谷和宏
1959年12月、横浜生まれ。作家・経済ジャーナリスト。
大正大学表現学部客員教授。1984年4月、日経BP社入社。日経ビジネス副編集長などを経て2002年4月『日経ビジネスアソシエ』を創刊、編集長に。2006年4月18日号では10万部を突破(ABC公査部数)。日経ビジネス発行人、日経BPnet総編集長などを務めた後、2014年3月末、日経BP社を退職、独立。また、1997年に長編ミステリー『銹色(さびいろ)の警鐘』(中央公論新社)で作家デビューも果たし、以来、渋沢和樹の筆名で『バーチャル・ドリーム』(中央公論新社)や『罪人(とがびと)の愛』(幻冬舎)、井伏洋介の筆名で『月曜の朝、ぼくたちは』(幻冬舎)や『さよならの週末』(幻冬舎)など著書多数。また本名の渋谷和宏の筆名では『文章は読むだけでうまくなる』(PHP)、『IRは日本を救う』(マガジンハウス)、『知っておきたいお金の常識』(角川春樹事務所)など。
TVやラジオでコメンテーターとしても活躍し、主な出演番組に『シューイチ』(日本テレビ)、『チャント!』(CBCテレビ)、『Nスタ』(TBS)などがある。